Friday 31 August 2018

ある記憶

雷と大雨降る今日の夕方。8月31日。昨日のブログと同様、気持ちの上では今日が夏の終わりと思ってしまうのはなんでだろう。(思春期の刷り込みは恐ろしい。)

9月に入っても、実際は残暑続く昨今なのに。明日から秋が始まるんだという気分。
本当は旧暦のほうが、季節と連動しているなとは思うんだけれど。

別に特別にバカンスらしいことをした訳でもないけれど、過ぎゆく夏を名残惜しく思い返す。地味だけれど日々の生活の中で季節を感じて暮らすこと、そういった意味では十分満喫したなと思っている。昔は何か特別な場所にいったり非日常を求めていたけれど、今は違うな。

[追記]
去年の8/31のブログ。偶然わたしの担当だった。今日と似た様なことを書いている!おまけにタイトルまで・・・。書き終わった後読んでみて、不思議なような必然のような。同じ人なので当然というか。

(my)

Thursday 30 August 2018

あの夏の感じ

これだけ暑いと、いつまで夏が続くのかおそろしくなる今日この頃。
でも夏休み最終日の8月31日が「夏のおわり」という感覚はこの歳になっても残っている。(今の夏休み期間は地域によって結構違うようだが。)「今日は30日、あと1日しか夏がない…」学生の時のいろいろな感情が入り混じったあの感じは、言葉では説明しづらいものがある。

そういえば、坂本慎太郎さんが『できれば愛を』に関するインタビューで、「夏休みの最初の日の朝っぽいアルバム」をテーマにしていたと語っていた。すごくよく分かります。その感じ。

今宵は、「あの夏の感じ」を永遠に封じ込めたような音楽、ジョナサン・リッチマンの "That Summer Feeling" に針を落とすことにしよう。

(青柳)

Wednesday 22 August 2018

日日雑記#6

”夏の終わりのハーモニー”。
とある雑誌に懐かしいヒットソングからとっただろうフレーズが。改めていい言葉だなぁ。

日に日に秋が近づいてくる。夏の終わりということ。なんだか少し切ない気持ちになる。

どこか焦っているのは、夏休みの記憶のせいか。強制的な宿題なんてもうないのに。

そんな夕暮れどきに、休憩をかねて庭のベンチにこしかけて冷たい緑茶とわらびもちを食べた。少し落ち着く。ふと空を見上げると、季節は確実に進んでいる。

今年の夏は、わたしのことを励ましてくれるような本にたくさん出会った気がする。
図書館に一日こもりたいな。今のわたしにとっては、すごい贅沢なことだけれど。

気持ちがまずはじめにあるということを痛感する今日この頃。
そして、その次はやってみないとはじまらない。当たり前のことだけれど。

(my)

Monday 20 August 2018

思ったことの何割?

春ごろから作業していたホームページリニューアル作業がやっとメドがつき、先日公開することができた。5月には公開予定だったのだからヒドイものだ。

遅れた一番の理由は、現状のサイトでも見れる状態だったので、仕事の後回しにしがちだったこと。データの移行はとても地味な作業だったので、エンジンがなかなかかからない。日課にするには苦行すぎた。

ついに自分にムチを打ち、締め切りを設定した。期日を設け、うまくいくとエンジンキーがONになる。1速から2速に入りそのままうまく加速して完成するイメージを念頭に作業した。(ちなみにマイカーはマニュアル車です。)

なんとか締め切りギリギリでホームページをアップすることができてホッとした。でも思っていた内容の7・8割しか出来なかった。必要最低限という感じ。

いつも必ずそうなってしまうから面白い。がんばって膨らませたビーチボールの栓をする時、何パーセントかの空気が漏れて小さくなってしまうかのようだ。だからいつもイメージは思いっきり大きく持とうと思っている。途中で現実にぶち当たり、小さくなってきたら追加でイメージを押し込め、さらに膨らます。それでまた小さくなってコトは終わる。

限られた時間でできることは、いつも小さくなるからといって、手抜きはしたくない。精一杯吹き込まないとどんどん萎んでいってしまう。

強欲だなぁ、と自分のことを思うけど、想像するのは勝手。人生もそんなものかも。

(青柳)

Saturday 11 August 2018

めがあう

ネット時代。通販がさかんになればなるほど、わたしは実際お店に足を運んで物を購入することに惹かれる。

もちろんネット通販のお世話になっているし、便利だなとも思っている。既存の知っているものを買うのには重宝する。ただそこにあるのは予定調和の世界。”これがあなたへのおすすめです”。まったく離れたとんでもないものをおすすめされることはない。

レコード屋さんや本屋さん。いろんなコーナーをなんとなくぶらつくうちに勘が冴えてくる。直感のようなものか。ふとめがあう表紙やジャケット。けしてどんな本やレコードなのか、ネットで調べてはいけない。だれかにおすすめされたものではないので、未知のもの。ぴんときたら、それを手に入れる。

すごく自分にあっていることもあれば、失敗なこともある。こうやって身銭を切っていくうちに、自分の好みに対する精度が高まってくる。オーダーメイドのような。これは自分自身で磨いていかなくてはいけないこと。すべてにおいていえること。例えば美味しいたべものについても。

みんながみんな、こういった感じを望んでいるとは思えないし、だれかのおすすめじゃないぶん、リスクも大きい。そのぶん自分にとってのぴったりがわかってくる快感はすばらしいものだ。めがあって、合うものがなんとなくわかるようになってくる。

どんどん現場主義、体験主義になっている。

(my)

Wednesday 8 August 2018

夏の光

horaanaの建築は、約150年前に設計された。当時の建物は、夏の気候を快適に過ごせることに重きを置いて建てられていたらしい。というのも、夏の強い太陽の光、湿気は、人にとってはもちろん、建物にとってもダメージが大きいからだ。寒いときは、人は火をおこし、衣服を着込み暖をとったらよいが、冷房の無い時代において、暑さ対策でできることは限られている。

それにしても、今年の暑さは物凄い。この状態がこれからの標準になったらどうしよう。夏の服装や働き方も変わって行くんだろうな。ビジネス短パンが認められる日も近い。

今年の気温は150年前にはもちろん想定外だろうが、それでもhoraanaは比較的快適だ。クーラーが無くても、全ての窓や戸を開けっ放しにすると、気持ち良い風が吹き通る。茅葺きの断熱効果で屋根からの熱は無いし、土間はひんやりとしている。何より涼しく感じるのは、薄暗い部屋の明るさかもしれない。建物の向きを太陽の動きに合わせて設計しているため、光が過剰に室内に入ることはない。気持ち良い朝日が少し差し込む以外は、直射日光は遮断されている。

「明るい」ということは現代においては、「良い」ことだ。南向きに大きな窓を開け、真っ白な壁に包まれて、快活な室内空間を演出する。明るい部屋は冬はとても気持ち良い。おそらく、日本の現代建築は、北部西洋文化の影響が強いのだろう。一年のうち半袖で生活する期間がこんなに長くなった現在、そろそろ、アジア・アフリカなどの夏向け建築を参考にした方が良いのかもしれない。

夏の太陽光といかに付き合えば良いのか、昔の人は智恵を持っていた。自然を知ることは生きること直結していた。現代人が学ぶところがたくさんあると思う。

(青柳)